愛知県蒲郡市神ノ郷町上向山18 391K990D
みかん畑で捕まえて
中山道 五箇荘村 滋賀県東近江市五個荘新堂町 429K430D
五個荘町(ごかしょうちょう)は、滋賀県神崎郡にかつて存在した町。近江商人発祥地の一つとして知られる。かつては「五箇荘」と表記され、現在も駅名などに残っている
2005年(平成17年)2月11日に、八日市市・神崎郡永源寺町・愛知郡愛東町・湖東町と合併して東近江市となり廃止した[1]。本項では合併後の五個荘地区についても述べる。
古来より交通の要衝で、古代には東山道、近世には中山道や御代参街道(伊勢道)が通り、現在も国道8号と東海道新幹線が町中央部を横断している。その利点を活かして、中世以降近江商人発祥地の一つとして発展。特に江戸時代後期から昭和初期にかけて多くの商人が発生し、成功して財を成した商人の屋敷や庭園などが残る。1980年代後半頃から「近江商人発祥の地・てんびんの里」のキャッチフレーズのもと、それらの保存活動や観光資源化が進められている。
大津事件と瀬田の街
大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。
当時の列強の1つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となり、日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が責任を負って辞職し、6月には司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した
人力車夫[ソースを編集]
この事件で津田を取り押さえるという功績を挙げた人力車夫、向畑治三郎と北賀市市太郎の二人は、事件後18日夜にロシア軍艦に招待された。この際、ニコライの要望により、正装ではなく、あえて人力車夫の服装のままで来るように要請された。そこでロシア軍水兵からの大歓迎を受けた。そしてニコライから直接聖アンナ勲章を授与され、当時の金額で2500円(現代の貨幣価値換算でおおよそ1000万円前後)の報奨金と1000円の終身年金が与えられた。日本政府からも勲八等白色桐葉章と年金36円が与えられた。当時、低い身分の職と見なされていた人力車夫に勲章を与えることはきわめて異例であり、その後も2人は国内で「帯勲車夫」と呼ばれ一躍英雄として脚光を浴びることとなった。
前科のあった向畑は博打と売春、怪しげな投機話に明け暮れ、勲章を没収された。日露戦争中には年金が停止される(ロシアは年金支給を続けたが、仲介する日本が停止した)。婦女暴行事件を起こし逮捕されている。ロシア革命でロシア政府が消滅し年金は完全に途絶え貧窮したものの、昭和期まで生きている。
北賀市は堅実に郷里の石川県で田畑を購入し地主となり、勉学を重ね郡会議員にまでなった。しかし日露戦争が始まると露探(「ロシアのスパイ」の意)扱いをされ、特に戦死者の遺族から糾弾を受けた。北賀市は家の表門に飾っていた勲章を取り外し、無実を証明するとして軍隊に志願した(受理はされなかった)。 なお現在は知名度は高くはないものの郷里の英雄とされ、加茂神社に「北賀市市太郎生誕の地」の碑が立てられている。
大津事件の場所
この辺りは起伏に富んだ地形で、湿地から小高い丘が大小多数存在し、新幹線にそれらを貫き山科の長いトンネルに突入していく。2本トンネルを抜けた先が京都で一瞬で通過する。
大津市瀬田の街の小高い丘はこれでもかと住居が存在するのが、幹線内から垣間見える。
なかなかにタフな場所で類似した景色が続く。
中山道69番 東海道53番 大津宿より瀬田唐橋 滋賀県大津市瀬田 464K450D
つまり中山道69次、東海道53次の最終宿である大津宿を出て、京都目前の琵琶湖から派生する瀬田川を渡る。
【注】前日、前々日と瀬田東付近の現場が続いていて流れで瀬田東で下りてしまったが、正しくは瀬田西で下りるべきであった。
唐橋を渡ったあとはひたすら道なりにいくと東レの一大拠点に突き当る。
右に曲がったセブンで時間調整。現場は左へ。
セブンには東レ社員らしきスーツ組の人々がタクシーで続々と到着して、世界に名立たる東レの隆盛ぶりを肌で感じる。
唐橋は中洲のあるなかなかに趣のある橋である。
瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線・滋賀県道16号大津信楽線がこの橋を渡る。 勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。
京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三大橋の一つとされてきた[1][2]。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」にも選ばれている[3]。
唐橋の前後は保存された意匠の旧街道の雰囲気だが、唐橋を渡り西へしばらく走ると急に道幅が狭くなり、時代の流れに自然に身を任せた旧街道の名残が色濃くなる。