Judy 真夜中の偵察手

真夜中に仕事で東海道と中山道をうろうろしています。 ちなみにJudyは彗星という意味です。

大津事件と瀬田の街

大津事件 - Wikipedia

大津事件(おおつじけん)は、1891年明治24年)5月11日日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。

当時の列強の1つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となり、日本政府内では外務大臣青木周蔵内務大臣西郷従道が責任を負って辞職し、6月には司法大臣山田顕義が病気を理由に辞任した

 

 

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人力車夫[ソースを編集]

この事件で津田を取り押さえるという功績を挙げた人力車夫、向畑治三郎と北賀市市太郎の二人は、事件後18日夜にロシア軍艦に招待された。この際、ニコライの要望により、正装ではなく、あえて人力車夫の服装のままで来るように要請された。そこでロシア軍水兵からの大歓迎を受けた。そしてニコライから直接聖アンナ勲章を授与され、当時の金額で2500円(現代の貨幣価値換算でおおよそ1000万円前後)の報奨金と1000円の終身年金が与えられた。日本政府からも勲八等白色桐葉章と年金36円が与えられた。当時、低い身分の職と見なされていた人力車夫勲章を与えることはきわめて異例であり、その後も2人は国内で「帯勲車夫」と呼ばれ一躍英雄として脚光を浴びることとなった。

前科のあった向畑は博打売春、怪しげな投機話に明け暮れ、勲章を没収された。日露戦争中には年金が停止される(ロシアは年金支給を続けたが、仲介する日本が停止した)。婦女暴行事件を起こし逮捕されている。ロシア革命でロシア政府が消滅し年金は完全に途絶え貧窮したものの、昭和期まで生きている。

北賀市は堅実に郷里の石川県で田畑を購入し地主となり、勉学を重ね郡会議員にまでなった。しかし日露戦争が始まると露探(「ロシアのスパイ」の意)扱いをされ、特に戦死者の遺族から糾弾を受けた。北賀市は家の表門に飾っていた勲章を取り外し、無実を証明するとして軍隊に志願した(受理はされなかった)。 なお現在は知名度は高くはないものの郷里の英雄とされ、加茂神社に「北賀市市太郎生誕の地」の碑が立てられている。

 

 

 大津事件の場所

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さて今回は瀬田川を挟む区間の現場。

この辺りは起伏に富んだ地形で、湿地から小高い丘が大小多数存在し、新幹線にそれらを貫き山科の長いトンネルに突入していく。2本トンネルを抜けた先が京都で一瞬で通過する。

 

大津市瀬田の街の小高い丘はこれでもかと住居が存在するのが、幹線内から垣間見える。

 

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なかなかにタフな場所で類似した景色が続く。

中山道69番 東海道53番 大津宿より瀬田唐橋 滋賀県大津市瀬田 464K450D

つまり中山道69次、東海道53次の最終宿である大津宿を出て、京都目前の琵琶湖から派生する瀬田川を渡る。

 

名神瀬田東を下り瀬田川を唐橋で渡る。

 

【注】前日、前々日と瀬田東付近の現場が続いていて流れで瀬田東で下りてしまったが、正しくは瀬田西で下りるべきであった。

唐橋を渡ったあとはひたすら道なりにいくと東レの一大拠点に突き当る。

右に曲がったセブンで時間調整。現場は左へ。

セブンには東レ社員らしきスーツ組の人々がタクシーで続々と到着して、世界に名立たる東レの隆盛ぶりを肌で感じる。

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唐橋は中洲のあるなかなかに趣のある橋である。

 

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線滋賀県道16号大津信楽線がこの橋を渡る。 勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。

京都の宇治橋山崎橋とならんで日本三名橋日本三大橋の一つとされてきた[1][2]。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」にも選ばれている[3]

 

瀬田の唐橋 - Wikipedia

 

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唐橋の前後は保存された意匠の旧街道の雰囲気だが、唐橋を渡り西へしばらく走ると急に道幅が狭くなり、時代の流れに自然に身を任せた旧街道の名残が色濃くなる。

中山道65番 愛知川宿

愛知川宿(えちがわしゅく、えちがわじゅく)は、近江国神崎郡にあった中山道65番目の宿場(中山道六十九次)で、現在は滋賀県愛知郡愛荘町愛知川および中宿。愛知川の東岸に位置する。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、愛知川宿の宿内家数は199軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠28軒で宿内人口は929人であった。

元は東山道の宿駅で、『太平記』にも記載されている。宿場町であると同時に近江商人の町でもあった。「びん細工手まり」は、起源は定かでないが、愛知川だけに伝承される工芸品である。

 

 

愛知川と書いて「エチガワ」と読むらしい。

 

仕事の始まりは点呼の後打ち合わせがある。施工図に基づきダイヤと作業区間、作業時間帯や配置と作業段取りの説明、そして現場と幹線立ち入り場所の説明がある。

施工図か簡易図面になっていて、キロ程と橋梁名(すなわち川の名前)や陸橋名なども記入してある。

愛知川と記載してあるとアイチガワと思い込んでいて、え?何で彦根なのにアイチガワ?なんて思っていた。口頭で「エチガワを越えて」とか説明があっても、アイチガワだと思い込んでいるから愛知川だとは認識せず、施工図には載っていない川なのかと思っていた。

愛知川宿の存在を意識した3年目にしてやっとエチガワなのだと認識。

 

彦根インターを降りR8を西へしばらく走ると愛知川の橋が見えてきて、南側の旧街道は愛知川宿だ。古の繁栄の名残が色濃く残っていて豊郷宿にも似ている。

 

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明治天皇降臨の石碑は責任重大

 

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愛知川宿への入り口に不飲川(のまずがわ)橋がある。
平将門の首を刎ねた刀をこの川の水源である野間津池で洗い、川が血で赤く染まったという伝承に由来する。京都の山科区御陵にも、牛若丸や平氏の伝承にまつわる「血洗池」という小さな湧水池がある。湧水の神聖さが血を洗うという「清め」に関係しているのだろうか。

 

旧街道宿場町の雰囲気が多く残っている。

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栄えていた旧街道宿場町には、大正末期から昭和初期に流行ったネオゴシック調の構造物が高い確率で遺っている。豊郷宿にもあった。郵便局、銀行、学校や庁舎など。

 

 

岐阜県安八郡安八町大森 369K060D

岐阜羽島インターを下り左折

ミニストップ、ガスト、GSなどのある交差点左

長良川渡ってすぐの右手にサミットというグルグルポール乱立の床屋と交番があり、その対面路地に入った高架下の階段門扉。

通り過ぎると右手にパナソニックの墜落したUFOのような巨大な構造物あり。

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長良川橋梁は線路下にネット等はなくスッポンポン。枕木の隙間にはまると、川面まで真っ逆さまに落ちてまず死ねる。

弊社では過去に3人落ちた。

まるでイリュージョンマジックのように消えたという。

幸い全員ギリギリ捕まって生還。

 

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