愛知県額田郡幸田町芦谷深田 296K450D
額田郡の山間は額のような棚田を有すところから地名は由来するのだろうか。
「幸田(こうた)」
宝暦7年(1757年)下六栗村から代官所へ届けた文書の中に「井堰6か所江田川通り」とあります。広田川は当時江田川と書き、コウダと発音しましたが後年同音である広田と書かれ、発音はコウダと昔ながらの発音が残りました。
この広田川が流れる村ということで、明治39年に坂崎村、相見村、深溝村が合併した時広田村としました。しかし、明治41年の東海道本線の駅開業に際して、駅名を村名の広田(コウダ)とすることを鉄道省に申請したところ、すでに磐越西線に広田(ヒロタ)駅があり、同字の駅があるということで、同音をとって幸田駅と名づけられました。しかし、駅名と村名が違っていたのでは、社会的に誤解を招きやすいことと、幸田というイメージが当時の村民に好感を持って受け入れられたこともあり、明治41年に幸田(コウダ)村に改められました。なお、コウダからコウタへは、昭和29年8月1日の幸田町と豊坂村が合併したときに改められました。
「芦谷(あしのや)」
康生二年(1456年)造内裏段銭並国役帳に、五百五十五文三河国芦谷郷段銭と書かれています。岩堀・大草に続いて記されているので、幸田町の芦谷のことと思われます。
古老は、「年代は不明であるが、この土地は額田四郎勝正が首長となって土地を開き、その後に寛生のころ碧海郡上野から内藤勝重が移住し、あれた土地を開き耕地を増やし、十六世紀の中頃には、三十二戸、百四十六人の人口でした。その後十七世紀の中頃、六栗との境に堤防を築いて川の中央を境界とし、この川を境川と呼んだ」と伝えられています。
芦は稲科の多年生草本で、この地方では「よし」と呼び、水辺に自生していますが、この芦谷という地名は、水辺の芦原を開いて村落ができた当時の景観から名づけられたのもと思われます。
滋賀県近江八幡市西生来町 太郎防宮「まさに勝った、私は勝った。朝日が昇るかのように、鮮やかに、速やかに勝利を得た」
愛知県蒲郡市竹谷町八ツケ口 293K450D
みかん畑を抜けブッシュへ突入していくようなルート。
グーグルルートがロストしている先は新幹保線専用道と化している。
ABSをカタカタさせながら*1、車幅にオーバーラップするブッシュを掻き分け、教習所のクランクより狭小なクランクを二か所曲がって幹線を潜る。クランク部は橋になっていて失敗すると運が良くて脱輪、運が悪いと落ちるのが教習所との大きな違い。試験に落ちるのとは訳が違う。
何回か来ているから行けるのは分かっている。物理的に幅は確保され、クランクはピンポイントを攻めれば曲がれるのは分かっているから、勢いをつけてダイブしていく。
何かの間違いで後部内輪が脱輪しても、勢いがついていればエアでクリアできる。もたもたしていると脱輪して引きずり込まれる。
ここは誰も運転したがらない場所のひとつ。
だからいつも僕が運転を買って出る。経験を重ねるごとに、やらないもの、とのスキルの差はどんどん開いていく。
勢いと書いたが、本当に危険なところは誰よりも慎重にいくのも大切。雨や降雪で条件が悪い時などが典型。
あの人が失敗するなら仕方ない、というレベルになるまで経験を重ねるのが真のエースの証。
もちろん若いころに何回か手痛い失敗もしている。スタックは序の口、横転一回に堤防から半分落ちたり。
横転した時は携帯電話もない時代で2時間原野を歩いて助けを呼びに行った。
撃墜されて運よく生き残った新人パイロットみたいなもん。
空の戦いでは、新人パイロットばかりが毎回落とされてベテランパイロットばかりが生き残っていった。重ねるごとに、ますますベテランの生き残り術は上がり淘汰もされ、補充される新人は消耗戦でどんどん腕が落ちて行き死亡率が上がる。
ベテランパイロットは言う。
何があっても俺を離れるな。逸れたらお終いだ。
新人は必死に食らいついて行き運よく何回か戦いを潜り抜けると次第に回りが見えてくるようになる。つまり自分が何をしているかが分かってくる。
それがリスクコントロール。
自分自身でリスクコントロ―ルできないものは、もとより運転する資格はない。
敵が優勢だと感じたら、基地へ帰ることにしている。もっとマシな日のために
エーリッヒ・ハルトマン
*1:スリップしやすい路面や跳ねているとABSがあっけなく作動する
愛知県豊川市平井町丈方 2748K4140U
縄文時代の稲崎貝塚から察するに、日色野町村落も縄文時代からの歴史を感じさせる。
日色野(ひしきの)は菱木野天神社から想像できるように菱木野が地名の由来であろう。
また菱形というのは、洞穴の中にある小さな菱形池から、八幡大明神が生まれたという伝承によるという。ちなみに菱形は女陰を暗喩し、犬山市宮山の大県神社の女陰石は菱形であり子孫繁栄のシンボルであるなどする。
さらに菱の実は仙人の長寿の秘訣であったといい、子孫繁栄不老長寿がこめらているのは容易に想像できる。
それも踏まえて、隣接する丈方という地名は方丈とかけているのでは。
ちなみに方丈とは
- 1丈四方の面積を指す。またその広さの部屋や建物の事で、「方」には四角形の意味(例:方墳、正方形など)が在り、「丈」の長さをもつ「方」ということ(本項目で記す)。
- 古代中国において、仙人が住む島とされた東方三神山(蓬萊・瀛州)の一つで、神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる。方壷(ほうこ)とも呼ばれる。
さらに方丈と豊穣をかけていて、丈方神社は五穀豊穣を祈り、子孫繁栄不老長寿の菱木天神社と双璧を成しているのでは。
たしかに日色町はほぼ菱形である。
右下の豊川放水路は近代のものであるから考慮しないでいいし。
さらに北の菱形の頂点には山神。
丈方神社の新幹線を挟んだ先には倉狭間という小村落がある。倉の狭間つまり倉は岩がゴロゴロするさまで倉という嘉字を宛てているのであろうか。
実に興味深い
中国語では、集落(村落や都市)名には漢字二字からなる地名が圧倒的に多く、山や川などの自然地形は一字が多い。字数が多い地名はたいてい外国語に由来する地名である。地名専用の字が多いのも中国語の特徴である[* 4]。
日本と朝鮮は中国の影響で漢字二字に地名を改めた歴史を持ち、その後も長く二字表記が暗黙の規制として働いた。日本は713年(和銅6年)に発音はそのままで好ましい字二字で地名を表記するよう一斉に表記を改めた[* 5]。朝鮮は三国時代には漢字の音を借りて地名を表していた(吏読文字と呼ぶ)が、統一新羅の757年に景徳王が中国風の漢字二字の地名に変更した。
日本語の地名は漢字と仮名の2本立てでできているので、両者が乖離したり片方に引き寄せられたりして複雑な様相を呈する。713年の好字二字令のときに発音と乖離した文字を付けられたのが古い例で、これが字に引きずられて読みが変わることもあった[* 6]。この種の変化は誤解から生じることも、意図的に変わった表現をとろうとする趣向から生じることもあり[* 7]、一つの地名で複数の表記や発音が競合することも珍しくない[* 8]。
大和朝廷は日本全国に(といっても当時の権力の及ぶ範囲ですが)、『地名は二字にして、嘉名とせよ』という通達(条例)を出しました。簡単に云えば「地名は二文字で作り、字は良い字・縁起の良さそうな字を当てはめよ」というものでした。
現在の地名も、概ねそのようになっているはずです。これは、それ以前の地名が、あまりいい地名ではなかったとも云えます。
一文字地名を強引に二字の地名にするため、「泉」を「和泉」(嘉字である和を接頭的に付けていずみと読ませる)にし、「木」を「紀伊」、「粟(あわ)」を「安房」、「阿波」にしました。
また例えば、地名に「久保」が入っている地名は多いと思います。長者久保、長久保、西久保、大久保、栃久保、久保沢などです。これは地形地名の典型です。もとの地形が、窪地、窪みだったわけですが、これでは律令のお達しに反してしまうので、「久保」にしたということです。「久しく保つ」決して悪い地名ではありません。苗字にも多く転化した地名です。
名古屋市中川区露橋 341K010U
1988年日本シリーズで西武の清原はナゴヤ球場左翼へ場外ホームランをかっ飛ばした。ボールは隣接する新幹線高架にぶち当たったという。
「かなり飛ぶんじゃないかと思って。場外に消えていくのも見ました」。他人事のように自らの会心の一発を振り返った21歳の若き大砲。ナゴヤ球場での日本シリーズ第1戦は、日本シリーズ最長不倒といえる特大アーチでまず西武が主導権を握った。
場外弾は果たしてどこまでボールは飛んだのか。ナゴヤ球場左翼席後方の球場敷地内には幅6メートルの通路や自転車置き場などがあり、フェンスを隔てて東海道新幹線の高架があった。清原の打球はこの高架に直撃した。目撃者でこのホームランボールを拾ったのは、岐阜県美濃加茂市の男性(当時51)。【10月22日】1988年(昭63) 日本シリーズ最長!清原和博、18勝投手をヒビらせた場外弾(野球) ― スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球09年10月
ナゴヤ球場と尾頭駅
尾頭橋駅は東海道本線の駅として、ナゴヤ球場正門前駅廃止の翌年に開業した。
尾頭の前身は国鉄民営化後にJR東海が、JR貨物が保有する東海道本線の貨物支線(名古屋港線)に臨時駅として開設したナゴヤ球場正門前駅である
現在の中日ドラゴンズのホームグラウンドは名古屋市東区にあるナゴヤドームだが、ドーム完成の1996年までは名古屋駅 - 金山駅の、東海道本線・中央本線・東海道新幹線・名鉄名古屋本線に隣接する中川区のナゴヤ球場であった。
常設駅昇格を望む住民からの声と、ナゴヤドームへの中日本拠地移転後の競馬ファンを中心とした集客を見込んで、同駅付近の東海道本線(金山 - 名古屋間)に常設駅の設置を決定。これを受け、尾頭駅開業前年の最後の中日ドラゴンズ対読売ジャイアンツの「10.8決戦」にて同駅は廃止となった。
また国鉄時代の昭和20 - 30年代にも球場近くに仮設ホームを置いて、貨物列車最後部に客車を増結する形で観客輸送を行っていたことがあった。初は1949年(昭和24年)10月の日米親善野球試合の際で、この時は「中日球場前駅」を名乗っていたという。しかしこの時はデーゲームに限られたものであり、更に運行本数も日1往復と微々たる物であったため、同線の貨物列車削減と共にいつしか消滅した。
一方名古屋鉄道(名鉄)では、1944年開業の名古屋本線上にある山王駅を1956年 - 1974年の間「中日球場前駅」、1975年- 2005年の間「ナゴヤ球場前駅」と改称し、試合開催日には特急・急行電車を臨時停車させていた。
まずは名古屋高速丸の内ICから下りたらすぐにUターンし名古屋基地に向かう。
その後ナゴヤ球場横の現場へ。周辺は露橋という地名でいかにも由縁がありそうである。中川運河も近く鉄工など名古屋の鍛冶屋として土地が形成されてきたのでは。
ガテン系住居ビル
現場を確認して近所のラーメン屋へ。
爛々亭 横浜家系
麵の硬さ、スープの味の濃さ、油の加減を確認され全て普通を選択。
だが脂ぎった濃い味の醤油トンコツに中太麵はかなりマッチョな印象を受けた。京都帰りで繊細な和風だしを味わった後なのも影響しているし、名古屋はとにかく濃ゆいのである。
南西の二女子、五女子という風変わりな地名は、中川運河の対岸にも四女子と3か所であるが、かつては一女子から七女子まで村があり、昔ある尾張の豪族に七人の娘がおり、その娘を七つの村にお嫁に出しそこを領地としたことから村の名が変えられたという。
帰路は名古屋高速3号線高辻ICから
4号線尾頭ICもありかもしれない
愛知県蒲郡市大塚町仲野 285K890U
みかん畑の山々と三河湾に挟まれたスペースに在来、新幹線、R23の旧国道、国道が通っている。
瀬戸内に少し似た風光明媚な蒲郡の山並みの南斜面にはブランドともなった蒲郡みかんの一大産地。山と共に暮らす農家も多い。
現場から少し北へ上った村落は狐狭間というおどろおどろしい地名のついた地区。
実際、今でも狸が頻繁に出没し幹線内で天に召されている。その昔は狐も潜む森だったに違いない。
新幹線と在来線が立体交差していて、新幹線は在来線の下に潜って交差していて、仕事のも佳境に差し掛かるころ、サンライズ出雲の上り線が通過していった。
東海道蒲郡区間は新幹線と在来線が縺れるように並行しており、時折通過する貨物車両やいまでは希少なミッドナイトエキスプレスが闇を貫く。
サンライズ出雲東京行き
0309蒲郡市大塚町狐狭間通過